この街には、大きな湖があった。
大きな湖のすぐ近くには、湖畔に面するように温泉旅館が建っていて、いつでも街の外からの観光客を温かく迎えていた。
温泉街のそばには、街で暮らす人の家が並び、住宅街の中には、喫茶店や観光客向けのみやげもの屋が人気を集めていた。
住宅街から湖に背を向けて周りを見渡すと、季節によって色彩の変わる山々が、視界いっぱいまで広がっていた。
街の中心から山へと続く坂道の途中には、湖を一望できる見晴らしのいい場所に、一軒の家が建っていた。
その家からさらに細く急になっていく山道を登ったずっと先には、本来の目的を終えてからもその場所に残り続ける、かつては天文台だった白い建物が緑の合間に佇んでいた。
たくさんの人が生活をして、幾つもの姿を見せる街。
そんな街の、場所はどこでも、時間はいつでも、ただそこに立って、顔を上げたとき、誰の視界の先にも広がる、そらの向こうには──。
ここは、霧弥湖町から少し離れた場所にある、北美市のマンションの一室。
「今日も、いい天気」
ブラインドを開けると同時に、眩しい光が部屋全体に流れ込んできて、汐音は思わずひとり呟いていた。
光の満ちる部屋は、暖かく、心地良い。
「……何言ってるの」
声が出てしまったことが恥ずかしかったのか、照れ隠しをするように一言つけ加えてから、汐音は窓に背を向けた。
冬はまだ先とはいえ、秋の夜はすでに空気が冷たくなっていた。だからこそ、朝を迎え、つい出てしまったのは、その言葉と、汐音本人は気づいていない、穏やかな表情だった。
知らず知らずのうちに出てしまった笑顔。
汐音が自分の表情に気づいたのは、理由なく、電源の落ちたパソコンのモニターをふと見たとき。
「…………」
今度は何も言わず、汐音は自分自身の表情から視線を逸らした。そして、二度と振り返ることなく、黙々と外出のための準備を始めた。
汐音も、本当は分かっていた。
最近、自分の気持ちが揺れていることに。揺れた感情の奥から、本当の自分が表情になって表に出てしまっていることに。
その理由のひとつが、無邪気な笑顔でことあるごとにまとわりついてくる、不思議な少女にあることも。
「──あっ」
出かける準備を整えて、充電中だったデジカメを手に取ったとき、心の動揺が指先に伝わったのか、カメラは汐音の手から床へと落下していった。
我に返って拾い上げ、破損を確認する。
記録媒体を差し込む部分のカバーが開き、中身が飛び出しただけで、見た限りでは破損はないようだった。
ほっとしながら、メモリーを元に戻し、電源を入れる。大丈夫。ちゃんと起動する。
そこまで確認してから、汐音は小さく呟く。カメラに向かってなのか、不思議な少女へなのか、自分自身へなのか。
「──本当に、迷惑」