彼──あるいは彼女にとって、一日の始まりは、ガラスに隔てられた外の世界からゆっくりとやってくる太陽の光が、自分の足下まで届いたときだった。
そして一日の終わりは、太陽が沈んだその瞬間ではなく、家族で賑わう人の姿が消えて、建物の灯りがすべて落ち、出入口の扉が閉ざされたとき。
真っ暗で、静かで、大きな部屋の中から、彼は夜の湖を見つめながら過ごしていた。
彼はひとりではなく、その広くて平らな身体に、たくさんの大切なものを背負っていた。
部屋を間仕切りする棚には、彼のイラストを包装紙に使った甘いお菓子が並び、また別の棚には、彼を元に作られた小さなストラップが飾られていた。
壁全体には、湖と、湖面から勇ましく顔を出す彼をデザインしたポスターと、それらをかたどったタペストリーが、少し色あせた値札とともに貼られていた。
彼は、真夜中の定位置である店内で一番出入口に近いその場所に立ったまま、どこか誇らしげな表情を店の外に向けて、まん丸な目を閉じることなく一晩中身じろぎもせず、自分の分身とも言える商品の数々を守っていた。
だからこそ、何事もなくいつものように朝の訪れを迎えられたことは、彼にとって安堵の瞬間でもあった。
だけど、彼が守っていた彼の子供のような商品の数々は、店全体のほんの一握りでしかなかった。一握り以外の大多数はと言うと、一番人気のまんじゅうだったり、色とりどりに光るストラップだったり、湖ではなく湖の上に浮かぶ丸い物体を模したタペストリーだったり。他にも、パーツの状態から自分で組み立てる縮小模型や、円形の中身を強引にくり抜いたような、安定感の悪い湯飲みまで存在している。近々、そこに取っ手をつけたマグカップも発売されるらしい。そのどれもが、彼にはない商品だった。
誕生したのは、彼の方が早かった。その頃はまだ、湖の空にその姿はなくて、彼は店の中と外を行き来しながら、のんびりと湖を眺めて過ごしていた。
だからこそ、彼はそれが現れた瞬間を、はっきりとそのつぶらな瞳で目撃していた。
雪が降る中、夜空に突然浮かび上がったそれは、闇を押しのけて輝く──円盤。
それから月日が過ぎても、円盤は彼が見たときそのままの場所と姿で、今も浮かび続けていた。
変化があったのは、円盤そのものではなく、彼の周りだった。
最初、円盤の影響で途絶えていた観光客は、次第に円盤目当てで集まるようになっていた。そして彼の周囲では、円盤を意識したみやげものが置かれるようになっていった。自分の商品は隙間に追いやられ、円盤に侵略されていくのを見ていることしかできなかった彼は、それでも不平不満を口にすることはなかった。
彼より先に店の前に立ち、そのリアルな存在感を持って彼とともに象徴だったはずの巨大な熊の置物は、最初こそ円盤に掴みかかり今にもかじりつきそうなそぶりを見せてはいたが、いつまでたっても実行に移すことはなく、最近ではむしろ仲良くじゃれ合っているのではないか、という疑念さえ浮かんでいた。
そんな彼の周囲に、最近になって小さな変化が起こっていた。
ノエルという名前の女の子が、頻繁に自分の元へ遊びにくるようになっていた。
ノエルは彼を怪獣さんと呼び、話しかけてくれた。彼に興味を示す観光客はいても、声をかけてくれる人は少なかった。
彼の大きく開いた口がとくにお気に入りのようで、前から後ろから顔や手を出していた。顔を出すだけで、他の観光客とは違って記念写真は撮らない。純粋に彼と遊びたいようだった。
彼にとってノエルという少女は、自分の存在に真正面から向き合ってくれる、そんな相手だった。
そして、もうひとり。
彼にとって大切な人がいる。
彼をこの世界に誕生させて、それからずっと自分のそばで惜しみない愛情を注ぎ続けてくれた少女。
自分では動くことのできない彼を、毎朝店の外に運び出しては身体を磨いてくれる。夜になれば店内に戻して、一日のねぎらいの言葉をかけてくれる。
姿の変わらない自分と違って、見ているその姿は日々成長して、今では彼と変わらない身長になっていた。
そして、今朝も──。
いつもと同じ穏やかな朝の光を足下に感じた彼の前に、自分を最初に作ってくれた頃は、大きく開いた口から顔を出すことも困難なくらい小さかった少女──椎原こはるがやってくる。
こはるは店の鍵を開けて、空気を入れ換えるようにガラスの扉を大きく解放してから、彼の顔をのぞき込み──。
「おはよう、キリゴン。今日もよろしくね」
ぽんっとハイタッチするように、霧弥湖の怪獣キリゴン──その顔出し看板の誇らしげに掲げられた左手に触れた。
こうして、いつもと変わらない、しいはら本舗の一日が始まる。